1月の終わり、ジョン・ウェットンが癌で亡くなった。2ヶ月前にはグレッグ・レイクも同じく癌でこの世を去っている。イギリスのプログレッシブロックを代表するボーカリスト兼ベーシストの二人が相次いで亡くなったことになる。 初めはたぶん中学生の頃だから、二人ともおそらく私が一番長い時間、その声を聞いてきたボーカリストだと思う。
Gleg Lake(King Crimson)
John Wetton(King Crimson)
二人は奇しくも同じバンド、キングクリムゾンのボーカリストとして世界的な名声を得た。グレッグはメジャーデビュー初期のボーカリスト。ジョンはグレッグが脱退したのち、再結成時のボーカリスト。面白いことに、そのずっと後にジョンがASIAから脱退した時の助っ人はグレッグだった。マネージメントの都合は大きかったはずだが、それだけプログレッシブロックの世界でボーカリスト兼ベーシストの大物といえば、この二人が筆頭だった。
Greg Lake(EL&P)
グレッグ・レイクはキングクリムゾンの鬼才ギタリスト、ロバート・フリップと同じギター教室でギターを学んだと言われている。バンド初期のボーカルが抜けたときフリップに誘われ、ボーカル兼ギター/ベーシストとしてキングクリムゾンに参加し、ロックの名盤といえば必ず登場する「クリムゾンキングの宮殿」と他一枚を残す。脱退後に結成したエマーソン・レイク・アンド・パーマーはグレッグをさらなる世界的ビッグネームへと押し上げた、バンドアンサンブルでのボーカルとベースに加え、アコースティックギターによる弾き語りの評価が高く、ソロ歌手としても「I Believe In Father Christmas」が英国シングルチャートで2位を記録し、その後も大物ミュージシャンがこの曲をカバーしている。
対するジョン・ウェットンは、何度か再結成を繰り返したKing Crimsonの最初の再結成時に、ロバート・フリップの大学時代のギグ仲間だった縁で加入する。透明と評されたグレッグとは対照的な甘くハスキーな声。そして太く激しいジョンのベースは、よりハードな路線に傾倒したクリムゾンにベストマッチで、「太陽と戦慄」「RED」などの名盤を残した。ジョンはそのボーカルと同様、ベースプレイの評価が高く、ベーシストとしてもロキシーミュージックやユーライアヒープ等のバンドを渡り歩いた。音は基本的にイギリスのロックベーシストらしい箱鳴りの強いゴリゴリとした野太い音だが、バンドのカラーや曲調によってピックと指弾き、歪み具合を使い分ける他のプログレベーシストにはあまり見られない繊細さもあった。
さらにいえば、日本人同様リズムがイマイチと言われがちな当時のイギリス人ミュージシャンの中で、安定したリズムを作れる珍しい存在でもあり、前期UKやハウ期のASIAのようにギタリストがパワーコードのリフをまったく弾かないバンドや、後期UKのようにそもそもギタリストがいないバンドでは、ジョンの歪んだベースがリズムギターばりの役割も担っていた。
John Wetton(UK)
Yesのクリス・スクワイア、EL&Pのキース・エマーソン、そして同じくEL&Pのグレッグ・レイクが亡くなり、今回のジョン。この一年でプログレッシブロック黄金期メジャーバンドのメンバーが立て続けに亡くなってしまった。
60年代終盤から70年代前半にかけて大ブームとなったプログレッシブロックは、70年代中頃を越えると急速に衰退していく、ときにオーケストラと共演したり、どんどん曲が長く難解になっていくアカデミックな匂いが鼻についた人も多かったのか、並のアマチュアバンドではコピー演奏ができない。曲が長すぎてラジオ番組でかけにくい。という普及面での困った問題もあり、近い時期に活躍したレッド・ツェッペリンやディープ・パープルのハードロック勢のようなわかりやすさにも欠けていたプログレ勢は、パンクミュージックやエレクトリック・ポップをはじめとする演奏技術に頼らないニュー・ウェーブ勢の台頭とともに低迷期に入る。
しかし80年代に入ると、かつてのプログレミュージシャンたちの逆襲が始まる。70年代のテクニカルで重厚壮大な音楽から、高い音楽性を失わないまま、ハードロックやヘビーメタルよりさらに聴きやすいポップミュージックへの転換。その中でも大きな成功を収めたのが再結成したYesとあのASIAだ。
John Wetton(ASIA)
スティーブ・ハウ(元Yes)、カール・パーマー(元EL&P)、ジョン・ウェットン(元キングクリムゾン)、ジェフリー・ダウンズ(元Yes/バグルス) プログレ黄金期(ジェフだけちょっと世代がずれているが、音楽的にはそれが功を奏した)の大物バンドのメンバーが集まったスーパーバンドという触れ込みで発売されたアルバムは見事に世界中で大ヒットした。
これは、その15年以上も後に製作されたアメリカの悪趣味コメディアニメ「South Park」の中で、ジャイアン風味の悪ガキ”カートマン”が突然「Heat Of The Moment」を歌い出すことからも、どれだけヒットしたかを想像できるだろう。
83年12月、ASIAの初来日公演は日本武道館から全米に向けてテレビとラジオで生中継という、前代未聞の大事として企画された。日本側の放送は公演の間、国際衛星回線を他に使えなくなることで緊急の報道などへの影響があるとかで、キー局ではなくたしかTVKが担当した。このとき武道館の客席に私もいた。
福島県の田舎でジョンが抜けてグレッグが来ると新聞で見たときには、そりゃびっくらこいたもんだった。オリジナルバンドで聞きたいのは当然として、グレッグも大ファンであるEL&Pのボーカリストだったから、それはそれで嬉しいし、どう反応したものか困惑したのを覚えている。当時は一大イベント前の突然のメンバーチェンジで、バンドはいち早く来日し公演まで三週間程にも及ぶ合宿リハーサルを行った、しかしグレッグは本番までに歌詞を憶えきれず、喉の調子も今ひとつで、足元のプロンプターで歌詞を見ながらの少しぎこちない演奏だったが、孤高のギター仙人、スティーブ・ハウ師匠を含め、ヒーローたちを前にした感動は大きかった。(ちなみにTV放送では「The Heat Goes On」がオープニングになっているが、実際は2曲目で、本当のオープニングは「Time Again」だった。)
グレックの歌はあの時と再結成EL&Pの公演で聴けたが、思えば中学の頃からあれほど長く親しんだジョンの生歌は結局聴けなかった。その声にあまりに長く親しみすぎて、いつも当たり前に存在する人のような気がしていたのかもしれない。今考えればまだ機会はあるだろうと、なんとなくたかをくくっていた部分があるような気もする。
「会いたい人には会える時に会っておかないと後悔する。」というのは学生時代に写真家木原和人氏が亡くなったとき、先に行われた作品展に意地を張って行かなかったことを後悔して思ったことで、実際その後はかなり実践してきたのだが、どうやら私はまた一つ後悔を残してしまったようだ。 ちなみにその合同展のメンバーだったU野さんとは、数年前に偶然共通の知人のパーティーでお会いして隣で酒を飲んだ、U野さんはすでにバッチリ出来上がっていて覚えていないと思いますが^^;)。 自分でチャンスを潰して永遠に会えなくなることもあれば、たまたま偶然に会えることもある。長く生きていると巡り合わせがいろいろあるものだが、会いたい人にはやはり会えるときに会っておくほうがいい。
当たり前の話なのだが、どんなスターでも、どんなに才能豊かでも、人生は有限なのだと、あたらめて実感した。
R.I.P.
(曲はおそらく有名なジャズスタンダード”How High The Moon”)